Lifestyles and Traditions 隠岐の大地とともに生きる人々の知恵

隠岐の人々は、火山活動によってできた地形を受け入れ、暮らしに役立つよう巧みに手を加えてきました。平地が少なく、急で痩せた土地で生き抜くために考えられた四圃式農法よんぽしきのうほうの牧畑、安全な交通を確保するため、600万年前の火砕流をくり抜いて造った手堀のトンネル。
空港や段々畑などを含めた現在でも見られる風景には、人々の知恵が込められています。

島前カルデラと牧畑

牧畑とは、隠岐で発達した独特の農法です。
島前諸島は600年前にできたカルデラの外輪山が島になっています。そのため、平地が少なく、斜面が多いため地表に土や栄養がたまらず、痩せた土地になってしまいます。
この平地が少なく、やせた土地を有効的に活用するために考案されたのが「牧畑」です。

この農法は中世ヨーロッパでもおこなわれていましたが、隠岐の場合は、独自の4サイクル方式によって行われていました。

  • 労働力としての牛馬の生産と土壌の栄養を回復させるための放牧
  • 地力回復(根粒菌による栄養塩の生産)と加工食品用のための豆類の栽培
  • 救荒作物(天候不良の年でも育つ作物)としてのアワ・ヒエの栽培
  • 主食としてのムギの栽培

を組み合わせ、土地を大きく区切って土地の利用法を回転させることで、休みなく土地を活用しつつ、土地を枯れさせないままで毎年同じ作物を栽培する仕組みになっていました。

また、放牧地に積まれている石垣ミョウガキは、1970年頃までおこなわれていた牧畑において土地を区切る役割を果たしていました。

赤ハゲ山周辺に残る牧畑の石垣(知夫)

こうした石垣からも大地とともに生きる先人の知恵を知ることができるのです。

島前唯一の広い平野

カルデラそのものでもある島前諸島には、大規模な田んぼがつくれるような広い平らな土地は本来ならないはずでした。ところが中ノ島(海士町)の北部にはそれがあります。そしてここは現在商業的な稲作がおこなわれている島前唯一の土地でもあります。

金光寺山から見た海士の低地

中ノ島随一の海岸景観を誇る明屋海岸から島前カルデラの中心である焼火山に向かって伸びるこの平地は、およそ280万年前に火山が作ったものです。元々この場所は水深のある入り江でした。その入り江の出口のあたりで火山活動がはじまり、そこから噴いた溶岩が入り江の口をせき止め、その奥に土砂がたまって埋立地のようになったのです。

溶岩台地と隠岐空港

川沿い以外は山だらけの隠岐の中で、唯一空港が建てられそうな場所がありました。
それが現在の隠岐空港のある島後の岬半島です。
この場所は約50万年前の噴火によりできた、サラサラと流れるタイプの溶岩(玄武岩)が作った傾斜の緩やかな溶岩の大地で、近年までは放牧や植林に使われていました。

南の海上から見た隠岐空港のある岬半島(島後)

盛土をして、山を削ってようやくできた空港ですが、他の場所で作ろうと思えば、倍以上の時間とお金が掛かっただろうことは簡単に想像できます。これもまた火山の恵み、大地の恵みと言えます。

日本海の潮汐と舟小屋

舟小屋は、舟を風雨から守るための小さな小屋です。
都万では伝統的な材料と技法で建てられ、浜の側に直接海から舟を引き上げられるように作られています。
この舟小屋20棟が整然とならび、その向こう側に山岳信仰の場所であった高田山を望む風景は静かな漁村のたたずまいを見せています。近くには松原が広がり、日本の白砂青松百選にも選定されています。

都万の舟小屋と高田山

このような海から近い陸地に小屋を建て舟を置いたままにできるのは、日本海の小さな潮汐があってこそと言えるでしょう。