焼火神社

大日霊貴尊(おおひるめむちのみこと)は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)から生まれ高天原(たかまのはら)を治めた天照大神(あまてらすおおみかみ)のことで、古くから日本海の船人に海上安全の神と崇められてきました。この大神は、祈願を込めると神火を掲げ、それによって遭難を逃れた船も多く、北前船の時代には海上安全の神として各地に焼火権現の末社が置かれたため、日本海のみでなく、東北の太平洋岸の海民にも信仰されて今に至っています。また、安藤広重や葛飾北斎等の版画「諸国百景」では隠岐国の名所として焼火権現が数多く描かれています。
社殿は隠岐で最も古く享保 17 年(1732)に改築されたもので国の重要文化財に指定されています。大阪で作成され米子の大工が地元で組み立てるという当時としては画期的な建築方法で建築されました。縁起書によると一条天皇(986~1011 年)の御代、旧暦 12 月 31 日の夜、海中で夜々不思議な火が燃え続けていましたが、海中より飛び出して山中に入ったのを見た里人が追って山に登ったところ、巨岩のそそり立っている所があり神火はここに留まっていました。そこに小堂を建て祀ったのが始まりです。
鎌倉時代、後鳥羽院が承久三(1221)年に隠岐に御配流になられた際、闇夜になり御座船は着船の湊が分からないので船頭が祈願を込めましたところ、たちまち神火が現れ、それに導かれてつつがなく着岸できました。上皇は船頭の案内で社参され、薬師仏を奉献し、それまで「大山」と称していたのを「焼火山」に、御社は「雲上寺」と御命名にされたとい云われています。
隠岐汽船株式会社の赤い商標は、この焼火神社の神火を形どったものですが(一説に焼火神社宮司松浦家の家紋三星ともいう)、今でも隠岐汽船の船が焼火山下の海上を通過する折には、焼火神社の神様に敬意を表して、必ず汽笛を高く鳴らしています。
旧正月の5日から島前(どうぜん)の各集落が各々日を選んでお参りする「はつまいり」が伝承されています。例大祭は7月23日・24日の2日間行われます。